大阪府スキー連盟 連盟沿革

草創期

 明治44年(1911)日本でスキーが発祥してから昭和9年(1934)に大阪府スキー連盟が創立されるまで、20数年の歳月がながれた。 大正12年(1923)全日本スキー選手権大会開始から大正14年(1925)全日本スキー連盟の創立を契機として、関西でもスキーが広まっていったが、限られた人々の趣味の領域であった。 その後、伊吹山、マキノ、神鍋、夜久野、愛宕山、花背と次々にスキー場が開設され スキー人口の増加、スキー競技会の開催、新聞社の後援によるスキー講習会等によって、スキー連盟結成の機運が大きく高まった。 昭和9年(1934)年12月19日大阪府スキー連盟創立。鈴木省吾会長以下役員26名 加盟17団体の陣容であった。 こうして大阪を中心としたスキーが大きく発展するが、なかでも昭和13年(1938) 1月9日、阪神・甲子園球場に新潟県・妙高高原から貨車30両で雪を運び、高さ30メートルのジャンプ台を特設し、「甲子園ジャンプ大会」が開催された。現在と交通事情の大きく違う60数年前に、このようなユニークなジャンプ大会が開催されたことは関西のスキー熱がいかに高いものであったかを特筆する証左であろう。 しかし、戦時体制へと社会情勢が大きく変化していく中でも、「戦技スキー」と位置づけ昭和19年(1944)に神鍋で講習会が開催されていた。これは先輩達が如何にスキーに執着していたかを物語る1コマである。

戦後のスタート

 昭和21年(1946)6月、戦前からの有志会員の呼びかけに呼応して、大阪府スキー連盟が再スタートする。 昭和23年(1948)から一般を対象に「スキー講習会」もはじまり、現在まで多くのスキーヤー誕生に多大の貢献をしてきたことについては、各界からも高く評価を受けている。 また、昭和31年(1956)年第7回冬季オリンピック(イタリヤ・コルチナダンペッツオ)で日本・猪谷千春選手の銀メダル(スラローム)獲得、三冠王になったトニー ザイラー(オーストリア)の來日、主演スキー映画の上映は日本のスキー普及発展に 大きな影響を与えることになった。 日本経済の高度成長に合わせて、レジャースポーツの広まりはウインタースポーツの花として、若者の心を躍らせ、飛躍的にスキー人口を広げていった。 1990年代に入ると、地球温暖化の影響であろうか、年々降雪量が少なくなっていく 状況への対策として人口降雪機が各スキー場に設置され、気候に左右されないスキー 環境へと大きく変貌して来た。 最近では平成9年(1998)2月、長野オリンピックの開催、日本選手の大活躍は記憶の新しいところである。

連盟組織と運営

 大阪府スキー連盟ではスキーの普及発展を目指して、長期にわたりいろいろな事業を継続実施してきました。これらの事業を少し紹介します。

昭和26年(1951)~ 基礎スキー講習会(年2回開催)
昭和29年(1954)~ 大阪府スキー選手権大会
昭和31年(1956)~ 正月スキー学校
昭和44年(1969)~ クラブ対抗スキー競技大会
昭和45年(1975)~ スキー年鑑の発刊
昭和59年(1984)~ スキー技術選手権大会x
※国体大阪予選会、準指導員検定会、スポーツ指導者養成講習会等も実施。

それぞれ伝統ある事業となり、この事業を通じて多くのスキーヤーが成長していきました。
現在、大阪府スキー連盟はこれらの事業運営を継続すると共に、加盟団体 90団体スキー普及の先達の役割を担う指導者養成も積極的に取り組み、競技部門指導者 90名、教育(普及)部門指導者 630名の陣容となっています。

※現役員 会長 小山雅史、副会長 2名、理事長 1名、理事 17名、監事 2名で運営されています